最高検総務部長の講演を拝聴しました

写真は国分寺殿ヶ谷戸庭園(とのがやとていてん)。良い天気だったのでいい感じに撮れました。
さる2009年4月23日(木)、東京大学大学院法学政治学研究科附属ビジネスロー・比較法政研究センターのビジネスロー部門が主催しているBLC公開講座第53回「裁判員制度への誘い ―その来し方行く末―」 講演者:酒井邦彦(最高検察庁総務部長・検事)を聴講してきました。


昨年、志望理由書作成のためいろんな資料を読んだせいもあり正直食傷気味のテーマですが、授業のコマも空いていたので軽い気持ちで聴いてきました。もちろん、この時期かつ検察の中枢にいらっしゃる方の講演ですので、制度批判のようなサプライズが飛び出すようなことは最初から期待していませんでした。
ただ、制度開始直前の、最高検総務部長というポジションの方がどのような制度像(制度目的)とその成立経緯への理解を持っておられるのか。言い換えるなら、パブリックな場所での発言ゆえに、公人としての見解=検察庁の見解がどういうものかをまとめておくのは一応の資料的価値があるだろうと思ったわけです。


講演の全体像はというと、裁判員制度をより大きな世界規模の社会変動(グローバル化)の中にあって、ある種の歴史的必然から生まれたものであるとしつつ、検察の取り組みと、制度への懐疑や疑問点への反論を通じて、裁判員制度を大局的視座から説示する、というものでした。
なお裁判員制度を戦後日本の民主主義の成熟と、そのさらなる発展を促すための制度的装置とする(ことを望む)という見解は、この制度の提案以来の共通了解事項のようです。まだまだ十分には立法関連資料を読んでないので断定はしませんけれど。


以下、『ケロロ軍曹』を読みつつ内容まとめ。
(毎度のことですが、あくまで管理人が把握した範囲で文字おこししています。テープ等ではなく、手書きのメモを元にしていますので、当然抜け漏れがあります。確さは保証できません。なお()内は管理人による補則です。おそらく近々BLCの機関誌か何かに講演録が掲載されるかと思いますので詳細はそちらをご覧下さい。)


●1.はじめに 検察について
昨今、代議士秘書の逮捕以来、特に批判的に言及されるようになった「国策捜査」論について。 
・ まず国家の政府機関が捜査・逮捕するのであるから「国策」であって当然である。
・ また検察の説明責任ということも言われるが、それは法廷でやるもの。
・ その点に関連して、検察からマスコミへのリークが行われているとの指摘があるが、ありえない話。マスコミに知られることを恐れて被疑者が黙秘するようなことがあるから。検察にとってリークはデメリットでしかない。マスコミ側がリークして下さいよといってくることはあっても。
・ さらに形式犯に対して逮捕するのは過剰な対応との意見がある。しかし真っ当な民主主義を守るためにある政治資金規正法違反は贈賄より重い罪を規定している。よって逮捕も必要だった。


話の枕は小沢民主党代表秘書の逮捕の件。さらに近年よく聞くようになった「国策捜査」批判についての話からはじまりました。まさに時事ネタですね。気になったのは最初の「国家機関がやるから国策捜査」で当然、という説明ですが本題からはずれるので脚注に回しときます*1

●2.裁判員制度とは
(検察の方針・取り組みを中心にレジュメの図表をもとに解説。詳細は省きます)
とかく検察は「分りやすく、迅速で、しかも的確な立証」を行うことをめざして準備中であり、ベストエビデンスを絞り込んで、確実な立証に努める。重大事件ともなると審理が数年に及ぶものもざらだが、それらも可能な限り証拠を搾り込んで一週間程度で終えられるようにしたい。なお法廷用語の分りにくさとその批判は、陪審制をとるアメリカでもある。ハーバード大学のボーク教授が批判するようにラテン語の多用など。

●3.なぜ今、司法改革なのか
・歴史的必然なのか
司馬遼太郎が『この国のかたち』で述べたように日本における社会変革は「外圧」が契機となっておこっている。これは司法制度も同じで、かつての律令制度も中国大陸の動静を受けてのものだった。そして明治の近代司法導入も同じ。貴族政治から武家政治への転換期に作成された御成敗式目は別かもしれないが。
そして現在みられるグローバリゼーションの主要因は情報通信・交通運輸等の技術革新がベースとなっており、不可避かつ不可逆なもの。これこそ現代における外圧に他ならない。


・グローバリゼーションと司法
90年代初頭、アメリカ大使館勤務時の課題はまさに日米構造協議。外国人弁護士問題ではずいぶんと苦労した。そこで日本に対し欲求されたのが市場開放と規制改革であり、90年代の各種の法規制の撤廃や改正に繋がっていった。
いわゆる事前規制から事後監視型社会への転換であり、事後規制(監視)に最適なアクターは誰かとなると、やはり司法府と考えられる。よって行政改革会議最終報告書が求めた「セーフティーネットとしての司法」の実現が急務となり、司法制度改革審議会設置へと繋がった。
この司法制度改革審議会はユニークな審議会で、いわゆる官僚主導ではなく、中坊公平氏を中心とする弁護士・民間人が草案をたたき上げ、我々官僚にもあまり介入をしないようにと言われた。


・これまでの日本の司法の問題
法曹人口、使いやすさ、国民との距離の三点で機能不全がおきていた。
(三点目の国民との距離について)他国の司法制度も見てきたが、やはり市民と裁判所との距離が遠いとの印象。それが裁判所の利用減や利用を避ける傾向に繋がったのではないか。その例として隣人訴訟事件がある。


・日本の刑事裁判の実力
真相究明力・・・まずアメリカで言う「真実」は訴訟上の真実であり、本当の真実は「神のみぞ知る」という文化がある。だから司法取引も積極的に活用される。一方で日本国民は刑事裁判で真実が解明されることを信じている。そしてその裁判での真実発見力については(精密司法と呼ばれるように)世界一だと思っている。


清廉さ・・・他国では弁護士は裁判官に賄賂を渡すのが仕事だとされているような国もある。それに比べれば、この点においても日本の司法は世界トップのはずだ。


スピード・・・これが遅かったのは確か。通常の刑事事件はそうでもないが、大事件は特に長期間になりやすかった。これは精密司法ゆえの仇。アメリカにはjustice delayed, justice deniedとの格言があるが、日本でも改善する必要がある。また弁護側にも裁判長期化による被害者感情の緩和などを期待し、早急な審理をするインセンティブを持たなかった。


・民主主義の発展と裁判員制度
明治初期、ボアソナードが治罪法とともに陪審制を提言している。ただ時期尚早と見送られた。その後、大正デモクラシーのもとで陪審制度実現の努力が進み、昭和3年から18年にかけて実現する。ただ戦争でうやむやになってしまったり、明治憲法下という制度的制約から元来政治的に無理があった。それが廃れた理由だと思う。
戦後まもなく、木村篤太郎らによる陪審制復活論もあったが、当時は物資も何もなく、莫大な費用のかかる陪審制度を運営する余裕がなかった。かつての陪審員はホテルに缶詰にされる代りに待遇はよかった。しかし、憲法32条の策定経緯にみられるように将来の陪審制復活に含みを残していたと考えられる。


そもそも「強い民主主義」を持たない国の市場経済は脆い。全体主義にゆくか、保護主義にゆくか。グローバル化の中では強い民主主義を持てるかどうかが(国の発展の)鍵だと思う。
ジャック・アタリが「社会の中で公(おおやけ)を担う人材」の必要性を説いているが、これこそ強い民主主義に至る方法であり、すなわち民度を高めることだと思う。アメリカの陪審制のように、裁判員制度によって日本の民度が高まるサイクルができることを期待している。


・被害者への配慮の問題 
特に戦後司法の中心的課題が被疑者・被告人の人権保護にあり、被害者が置き去りにされてきたのは確か。だが、そもそも国家刑罰権の独占は被害者に代替して罰を下すものとされてきた。だからこそ欧米での60年代からの見直しがおこり、日本も90年代以降被害者の権利保護・拡充が進む。
個人的には被害者参加等の問題は、裁判員制度と同等に、またそれ以上に重要な問題だと思っている。

●4.裁判員制度は成功するか 成功への鍵と検察の取り組み
検察こそ成功の鍵を握っていると思う。なぜなら刑事裁判において立証責任はすべて検察側にあるから。

・日本人には向いていないか?・・・そんなことはないと思う。むしろ向いている。十分に知的レベルも高いのだから、できないはずない。


・国民参加は確保できるか?・・・マスコミは参加意識は低いと報道するが、積極派と消極派を合わせてよく見てみると、ともかく選ばれたなら参加しようという人は半数以上いる。制度が動き出して、上手く回り続けることにもよる。


・法律の素人でも大丈夫か?・・・権限の点では裁判官とほぼ同等だが、能力の点で裁判官と同等のものを求めているわけではない。裁判官と市民のcollaboration=協働の意義を強調したい。(小田急線防衛医科大学痴漢事件の無罪判決に言及しながら)むしろ素人だから、一般市民だからできる判断をしてほしい。そのために検察も努力するつもりでいる。


●感想など●

酒井総務部長の語り口は気持ちの入ったものでしたが、「です・ます」調で分りやすいものでした。上記のメモのような断定調ではありません。それゆえ会場の雰囲気も和やかでした。ただ、残念なのは質問タイムが無かったことです。ロースクール生らしき人もたくさんいましたので。
各所で検察が努力すること、そのための準備を怠ることなく着々と進めていることを強調されていました。語り口からも本気で準備をしているということが伝わってくるほどでした。こうなると数で圧倒的に勝る弁護士側も単純に優位とはいえないかもしれませんね。
総じて感想を述べれば、なるほどと膝を打つような話はありませんでしたが、検察側の本気度が理解できるよい機会でした。また酒井検事は普段からいろいろと思うところ、発言したいことがあったのではないかとその口ぶりからうかがい知れました。司馬遼太郎ジャック・アタリを引用しながら、熱心に裁判員制度の必要性を説明されていた時などは、周囲でも頷いている人がいました。


最後にメモ程度に、個人的に質問したかったことを。


・刑罰権の発動に官民協働の要素が入り込むならば、将来的には訴追権の独占にもそういった要請・要求が及んでゆく可能性があるのではないか?だとしたら検察として、また一検事としてどう思われますか?


「強い民主主義」の可否についてはジャック・アタリを読んでいないためよく分りませんが、司法府における官民協働のスキームが裁判員制度だけで終わってしまうとは思えません。「個人的には」と前置きしつつ、被害者参加制度の重要性にも言及しておられた酒井総務部長はどうお答えになるでしょうか?やっぱり直接にでもお聞きしておけばよかったかもしれませんね。

*1:別のエントリを立てて論じる必要があるくらい重要な論点だと思うのですが、あんまり詳しく論じる力量もないのでちょこっと補足。この「国策捜査」批判とその回答のパターンはよく見かけますが、実は話が噛み合ってないように思われます。というのは前者の「国策捜査」批判側が言いたいのは、そこに政府=与党側の検察への強い介入があって、その政治力の効果として逮捕・起訴のような公権力の発動がなされた → だから(・A・)イクナイということではないでしょうか。一方、それに対する「国家機関がやるから国策捜査」という回答は、単に制度的枠組のみを根拠としています。つまるところ後者が前者の問いを理解できておらず、意味あるコミュニケーションが成立してないんですね。いわゆる「通約不可能」な状況が生じているようなのですが(管理人は科学哲学について素人なので言葉の誤用だったらご指摘下さい)、これって他の様々な政策論争や裁判の場などでも多聞する現象ではないでしょうか。穿った見方をするなら、回答者側が意図して相手の文脈を理解してないかのように振る舞っている可能性もあるよなぁと。いや、特にこの事件について何か言いたいわけではないのですが・・・ゴニョゴニョ