遅らせてきた中二病のツケ

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写真は三四郎池。
いつの間にか入学から半年以上過ぎていることに気付く。
忙しす(´・ω・)


気晴らしに、少し思うことをメモ。
知恵がつけばつくほど意思決定ができなくなる。意思決定の背後にある価値判断ができなるなるから。真・善・美に関するいかなる価値判断に対して、「〜すべき」、「〜であるべき」、と言い切る決定の正しさに対して、自信が持てなくなる。
あらゆる物事はいかなる理屈付けも可能である(西村肇教授『人の値段 考え方と計算』)。つまり、世界のあらゆる事象は「言葉ではなんとでも言えてしまう」ものなのだろう。ならばどのような論拠から、どのような推論を経れば正しい価値判断ができるのか。そもそも論拠と推論の客観性はどのうように担保されるのか。いや、さらに客観などという立場に立つことが本当に可能なのか。
哲学を周到に回避しようと、小難しい考究はできるだけやりたくないと逃げ回ってきたけれど。やはり、どこかでケリ(納得)をつけておかなければ、ものを考えることの、その先に進めない気がする。なお、社会科学の研究方法論ではそこまで突っ込んだ哲学的な議論はしないようで煮えきらなさが残る。


さて、以上のような煩悶も。結局のところ、思推に対する完璧主義・潔癖主義でしかないのかもしれない。思考の潔癖性のままに、思考停止するか。それとも潔癖性を克服し、世界に対してためらうことなく価値判断を繰り出してゆくか。まっとうに生きてゆくならば、後者を取るしかないのだろう。「仮言命法」というありがたい言葉もある。ただ、それでも毎日知恵はついて行く、いらない知識も増えてゆく。価値判断への確信、言い換えれば「ものを考える私」への自信を持てないままに、ただもう少し言葉少なになるしかないのだろうか。


なんだか、いまさらの中二病高二病?)。10年くらい前に、ちゃんと物事をつきつめて考えておけばよかったのかも。後悔先に立たず。ただ何年もペンディングしてきた課題ゆえに、さぼってきたバツともいえなくはない。
致命的なのは、政策系大学院に入ってから、より重みを増して「どうやって正しい価値判断をしたらいいんだろう」という課題に悩まされていることだろう。理由は意思決定に直結するようなリサーチトピックに囲まれるようになったからだと思う。しかし、これはもう後の祭りどころか在学不適格者なんじゃないだろうかという気さえする。価値判断抜きの政策などありえない世界なのに。価値判断が怖くなって「何ともいえませんねー」と誤魔化す日々。
政策提言無しの実証研究やレビュー研究みたいなことでお茶を濁していこうか。それなら幾分価値判断の比重は軽くなる。ただ、これも「逃げ」だなぁと感じる。どうしたものか。