文化の秋1

美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源

美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源

土曜日は午後から東京財団へ。青木昌彦先生が率いる比較制度研究所(VCASI)第一回公開フォーラム「文化と国家秩序 : 『公と私』の異なる位相―日本、中国、イスラム、西欧―」を聴講してきました。まったく専門外であり興味本位で申し込んだのですが、会場を見渡すと斯道の一線で活躍されている方々がチラホラ。ずいぶん場違いなところに来てしまったのかも、と最初は居たたまれなくもなったのですが、各講演はおおむね分りやすく大いに知的刺激を受けました。
その後の予定があったので残念ながら質疑応答の途中で退席。いろいろとメモも取ったのですが詳細はVCASIのウェブサイトにて公開されるとのことですし、一番興味深かった池上英子先生の講演について少しメモ。




池上先生の講演を纏めると以下のようになります。
日本の近世である江戸時代とは、強固に分節化された身分制を元に幕府への対抗軸となるような政治活動が厳しく取り締まられていた時代でした。
しかしそのような「公」的な諸制度の裏側で、「美」的なものへの関心を軸とした人々の自発的で活発な趣味や文化の同好会が形成されており、そのような「交際文化」は、身分や出自をこえて見知らぬ人々が交流し情報を交換し合う巨大なネットワークとなっていました。
それは幕府から強制されたものでも幕府に対抗しうる強固なネットワークでも無かったものの、しかし、だからこそ近世後期の西洋においてサロンなどが果たした「市民社会」の機能を担っており、そのような「市民社会なき市民性:Civility without Civil Society」こそ、明治維新後の急激な近代化を可能ならしめたのではないか。


以前の大学でお世話になった松葉正文先生が専門にされており、そして現在も市民社会論をテーマにしたゼミを受講している者として、この議論には膝を打ちました。これは「市民社会=西洋近代社会」であり、西洋化していない日本に「市民社会」は無いとする、西洋中心主義的な市民社会論に冷や水を浴びせかけるものではないでしょうか。
必要なのは「機能」であり、「名目」ではない。当たり前のことですが、学究の途上、大文字の概念について考える時には忘れがちになる視点です。池上先生はそこまで仰ってはおられませんでしたが、講演を聴き、今一度「市民社会」の「機能」が何であり何を果たしたのかを考えた上で議論すべきとの示唆を得ることができました。


わずか30分超の講演でしたが、これだけで聴講した甲斐がありました。おそらく池上先生の『美と礼節の絆 日本における交際文化の政治的起源』が話のベースになっているようなので、暇を見つけて読んでみようと思います。東京財団は加藤会長に代わって以降、たいへん興味深い研究プロジェクトが何本も進んでいます。VCASIも含めて、5年10年後に何が出てくるかとても楽しみでなりません。


追記:20071023
誤訳があったので訂正。
当日の質疑応答で話題にされたかもしれませんが、「市民性civility」という機能概念を軸に各国史における市民的成熟度の比較研究も可能になるのではないか?という気もします。西洋の誇る概念をもとに西洋社会を先頭に据えた単線的歴史観を実証的に覆せたとしたら?
興味は尽きませんね。