全国犯罪被害者の会シンポジウムにいってきました

nekomakura2007-04-22

21日に青山のドイツ文化会館で開かれた「全国犯罪被害者の会 第7回シンポジウム 〜被害者参加・損害賠償命令制度の成立を期して〜」に参加してきました。主催は犯罪被害者の権利確立にむけてこれまでも献身的に活動してこられた全国犯罪被害者の会(あすの会)であり、特定の官公庁が公費で行っているものではありません。また公的な助成を受けて開催されたものでもありません。
議論されたのは、現在法案が提出されている犯罪被害者の刑事訴訟への参加制度・損害賠償命令について。なんとかして日弁連執行部だけでなく野党も反対姿勢を見せているこの法案を可決させたい、との熱気が感じられるシンポジウムでした。


以下では、プログラムの前半の目玉である裁判劇と後半のパネルディスカッションについて簡単にメモと感想。
(あくまで管理人が把握した範囲で文字おこししています。テープ等ではなく、手書きのメモを元にしていますので、当然抜け漏れがあります。確さは保障できません。なお()内は管理人による補則です。)

《裁判劇》

プログラムは、まず岡村勲被害者の会代表幹事の挨拶に続き、法律案の解説がなされました。そして弁護士有志による裁判劇(模擬法廷裁判のようなもの)にて制度成立後の犯罪被害者や弁護士、検察官の役割がロールプレイされ、制度の具体的なあり方がわかりやすく提示されました。
夫を殺された妻(被害者)が弁護士事務所に相談し、被害者参加制度のもと法廷で質問・尋問を行ってゆきます。その中で、既存の制度では必ずしも明らかにされなかったであろう「損害回復」に関わる被害者=加害者間の問題点が顕になってゆく様はたいへんよくできた脚本だったと思います。


終幕後、あすの会の高橋顧問弁護士による若干の補足。それによると

  • 現在の法案には日弁連執行部が反対している
  • 現在の法案はあくまでも検察=被告の二項対立を前提にしたものであり、被害者はあくまで「参加」する立場が堅持されている
  • 被告側から被害者への反論はできないことになっており、被害者の保護は制度的には担保されている

以上の論点は、その後のパネルディスカッションでもたびたび言及されていました。

以下、前半部を受けての管理人の考えたことですが、
裁判劇でも示唆されていた加害者側による損害賠償を逃れるための財産の偽装移転、をどうしてゆくかは今後の政策的課題となるかと。損害賠償命令が出たとしても、どこまで被害者の損害回復が達成されるかはまだまだ不明確。個人的には民事訴訟の勉強をもう少しせねばと思ったところ。
また高橋弁護士の説明に基づくならば、法案そのものだけでなく法案を成立させ執行してゆく政策過程にも課題がありそうです。

《諸澤先生の基調講演》

裁判劇のあと15分の休憩をはさみ後半部開始。まずは常磐大学諸澤英道先生がパワポで基調講演。表題は「世界の流れと刑事訴訟法の改正」。簡潔に世界の被害者参加制度の動向と現法案について説明がなされました。以下、要点のみ書き出し。

いま正義が問われている
いまの犯罪被害者のおかれた状況は正義に反するのではないか?欧米で50年以上前に提唱された"Justice for Victims" がいまだ十分達成されていない。今回の法案を含め、現在、社会の安全と人々の安心を目指す政策のパラダイム転換にあるといえる。


世界の動向
1950年代、イギリスの刑事政策学者マージェリー・フライによる"Justice for Victims"の提唱。
1984年世界犯罪被害者学会での議論が、翌年の国連の「国連犯罪防止会議」(経済社会理事会の部会)の「国連被害者宣言」につながる。その国連犯罪防止会議では以下の点が批判的論点としてあげられた

  1. 量刑原則である不変性uniformityと平等性equalityの確保をどうするか
  2. 被告人が(制度導入前より)厳しい刑罰をうける可能性はないか
  3. 刑事訴訟手続を複雑にする虞がある
  4. 参加が被害者への負担にならないか
  5. 被告人による被害者への嫌がらせ等の虞がある
  6. 訴追権は社会に委ねられている(日本でいう国家刑罰権のこと)
  7. 手続の費用が増える

しかし、これらの論点を提出されたにせよ、被害者宣言はなされ、現在世界の20数カ国で被害者の参加制度が進められている現状がある。


欧米の政策動向
アメリカ・・・・1982年にPresidents Task Force on Victims of Crimeが参加を認めるべきとの答申。
ドイツ・・・1976年の被害者保護法以降、漸次的に参加拡大
フランス・・・1808年の治罪法時代から私訴権が認められており、1957年の現行刑訴でも同様


日本の判例と世論
1990年2月20日最高裁判例では被害者の参加を完全に否定
また今回の参加制度への大手新聞各社の論調(産経については言及なし)はいずれも懐疑的、または批判的

《パネルディスカッション》

引き続いてパネルディスカッション。コーディネーターは諸澤先生。パネリストは会場向かって左側から

  • 川出敏裕教授
  • 大澤孝征(おおさわたかゆき) 弁護士
  • 番敦子弁護士
  • 岡村勲代表幹事

の四名。
議論の内容に関しては本シンポジウムの表題にも掲げられた①被害者参加制度、②損害賠償命令のうち、論点の多い前者を中心とするものに。パネルディスカッションはコーディネータの問題提起に基づいて、パネリストと会場との質疑をふまえてながら進行する形。パネラーだけでなく会場の参加者も意見を言うことができ、会場からの忌憚ない意見が新たな参加制度の課題だと認知されるなど双方向性の高い新鮮なパネル運営でした。
問題提起の内容はというと、今回の法案に反対する側が掲げている論点をどう考えるか、というものでした。時間的な制約上、その全てが議論されたわけではないですが、各論点についてパネリストから反対派への再反論を形成するという流れになっていました。
以下、要約。

①(法案は)現行の刑事訴訟制度の検察=被告の対立構造を根本から変えてしまうのでは?
川出教授:法律論として議論される点あるが、被害者の「参加人」としての地位に意味があると考える。たしかに弁護士でも検察官でもない新たなアクターの参加は訴訟構造の変化であることは間違いない。
しかし、犯罪事実に関する証人尋問ができないなど、被害者が独立しているわけではない。あくまでも検察官との「共同」が前提であるから訴訟構造の「根本」を変えるものとはいえないだろう。(今回の法案は)訴訟の根本を変えず、なおかつ被害者の参加を可能にするもの。

②(新たな制度では)被害者の感情によって法廷が混乱することはないか
大澤弁護士:検察官としての経験に基づくならば、法廷を混乱させてきたのはむしろ被告人と弁護士のほう。被害者側が法廷でトラブルを起したことは見たことがない。裁判所による法廷の管理が強くなってきたのは(一部の)弁護士が法廷を「闘争」の場とみなし活動したためでもある。


番弁護士:自分も被害者が法廷を混乱させたのを直接みたことはない。
被害者は事実を知りたい、名誉を回復したいとの思いで法廷に来ているわけだから法廷を混乱させるようなことはしない(混乱させるメリットがない)。


会場から:そもそも被害者の「感情」を非難の対象にするかのような議論そのものがおかしいのではないか。被害者側の内面をもっと評価し、刑事司法の中で表現してゆくことが大事なのではないか。


岡村幹事:(会場からの問題提起をうけて)自らもまた妻を殺害された犯罪被害者だが、復讐心も含めて「被害者の感情否定=人間性の否定」だと考えてきた。自身、憤りを抱きつつも法廷では裁判のルールに従い証言などをしたし、弁護士としての経験上も被害者の行動の制約が少ない民事訴訟でさえ法廷が被害者によって混乱する様を見たことはない。
犯罪の被害を受けた上に被害者に対して「聖人君子になれ」というのは被害者にとってツライ。


諸澤教授(コーディネーター):個人的には法律に則ったうえでならば「報復的」なものもかまわないのではと素朴に思われる。
犯罪被害者の心理面の研究も長年続けてきたが、日本の犯罪被害者は法廷で痛々しいほど理性的であろうとする傾向がある。憎しみや怒りをムリをして抑えているかのようだ。


番弁護士まず被害者参加等の施策に関して、日弁連が一枚岩ではないことを知ってもらいたい。(被害者=感情的という日弁連執行部の態度に対して自分は)2005年の衆議院の院内集会でも「被害者のステレオタイプ化」と批判したことがある。

③参加制度によって被害者側が傷つくこと虞があるのでは?
岡村幹事:これまでは傍聴席にとどめおかれたことによって、被告人・弁護士側の嘘にも反論のしようがなかった。嘘つかれ放題だった。参加できるようになれば、そうやって嘘をつかれることも少なくなるだろう。


番弁護士:まず①裁判に関わる負担、と②二次被害については分けて考えなければならない。
①についてはあらゆる訴訟当事者に当然かかってくるものであるし、(自らの関わっている性犯罪などでは)むしろ犯罪被害者はそれを自ら引き受けることなくして前に進めない場合がある。
②については、証人出廷のほうが大きい。なぜなら反対尋問をうけるから。つまり現行制度のほうにより酷い仕組みがある。だから、むしろ被害者の主体性を強く出してゆく法案のほうが全体として被害者の負担は少なくなるのではないか。
なお、日弁連の主張する「参加しないことで不義理だと責められる」という点については(訴訟制度とは関係ないような)全くの別問題である。


大澤弁護士:主流派を自認する日弁連執行部は、犯罪被害者を被告人の弁護の上での「敵性証人」とみなす視点にワンパターンに凝り固まっている。つまり、犯罪被害者を人間ではなく「証拠」として見ている(からこそこのような反対論を出している)。
「被告人を守ること=人権擁護」という観念に囚われているのではないか。この反対論は弁護士側の感情論では。

④(会場より)①検察官と被害者との協力はどうなるのだろうか。②検察側が協力しない時のためにも被害者側に国選弁護人をつけてはどうか。
諸澤教授(コーディネーター):確かに先の裁判劇のように、検察との協力がうまくいく保証はない


大澤弁護士:最近の第一線の検察官にはだんだん若い世代が増えてきている。若い世代には犯罪被害者に対する理解ある人も多い。また弁護士側でも、若い世代ほど犯罪被害者への理解は広まっている。
さらに制度として、犯罪被害者への国選弁護人制度は是非実現したい政策プランである。(被告のみが公費で擁護される制度について)今のままでは「フェア」じゃあないから。


番弁護士:私個人もその実現を目標にしている。ただ、国選弁護士制度を、と言い切ってしまうことには少し問題がある。
すでに被害者の援助に関しては、精通した弁護士による活動が進行しており、今回の法テラスでも業務の一つとされている。もちろんもっと意欲ある弁護士が欲しいが、現在は「複数回のビデオ講習」を受けた者を業務に就かせている。
ただ、やっぱり公費を引っ張ってくるのは難しい課題。今回の法案で弁護士が被害者に関わる始期終期がはっきりしてきたので、この制度のもとでならば実現してゆけるかもしれない。
ひとまず現行でも弁護士による被害者支援制度はあるため、そちらを利用してもらいたい。


諸澤教授(コーディネーター):検察官についてはどうですか。今の法案では検察官次第の面がどうしてもあるのでは。


会場から:弁護士として被害者の援助に携わってきたが、おおむね検察官は努力してくれている。どうしても控訴できなかったケースでも高等検察庁から丁寧な手紙が来たりした。

⑤もし訴訟に参加しないことで被害者への非難(不義理である、等)が起きるような場合はどうするか。
岡村幹事:よくいうわ、と思う論点。妄想にすぎない。少なくとも被害者に配慮しての理屈じゃあないでしょう。世の中はそれほど冷たくはない。自分は妻の件で民事訴訟を起さなかったがそんな非難はなかった。
選挙制度のアナロジーで考えれば)投票にいかず権利を行使しなかったからといって、非難されたりはしない。これは議論するに値しない論点だろう。


番弁護士:被害者への支援制度(金銭面も含む)が整備されている以上、個人の意に反して訴訟に参加できないということはない。


諸澤教授(コーディネーター):現在は、むしろ被害者が民事裁判を起すことで非難する論調がある(そこまで賠償金がほしいか、といったもの等)。訴訟に参加しないことで非難する人なんていないのではないか。


会場から:民事裁判では裁判官に和解を進められることが多い。それについて被害者が迷うことがある。(社会の圧力ということ?)。新制度についてアドバイス出来る人が身近にいればよいのでは。

損害賠償命令についてどうか
諸澤教授(コーディネーター):これも先ほどの(裁判劇)ようにうまくいくとは限らないがどうか。


番弁護士:少なくともこれまでの刑事・民事の分離よりは被害者にとってよいものではないか。


川出教授損害賠償命令についての事実認定などが長期化すると、自動的に民事訴訟に送られるようになる。だから民事になるかどうかは、被告人側による面があるといえる。

最後にひとこと
川出教授:被害者が「参加人」とされたことが出発点となるだろう。これによって今後の議論の見通しがクリアなものになった


大澤弁護士この法案も国民の司法参加の一環といえるのではないだろうか。
当事者参加、司法への国民参加の一里塚として本法案を理解できる。これまでは被告側が嘘八百並べ放題の裁判。加害者の刑が重くなったとしても、それが(本来あるべき刑の重さであって)妥当ではないか。


番弁護士:今日のシンポジウムをみて、2003年の日弁連主催の人権大会を思い出した。
当時、今回の法案よりも強い当事者参加を求め、日弁連から批判的な反応しか返ってこなかった。
だから、ようやくここまできた、という想いがある。


岡村幹事:被害者の感情をもっと認めてゆくべき、との論点が出たのは嬉しい。
「被害者を枠にはめること=被害者を傷つけること」であり、被害者とは本来「気持ちがおさまらない」もの。
今のところ本法案が成立するか否か流動的ではあるが、成立した暁には私たちは新しい制度を成功させる責任を負うことになる。立派な、参加制度にしてゆきたいと思う。
(会場拍手)

《考えたことなど》

実は、せっかくの休みだし行こうかどうか迷ってたんですが参加してみてよかったです。勉強になったというのもあり、またいろいろと考えさせられる点もあったから。
特に後半のパネルディスカッションでの会場からの問題提起(②参照)はたいへん鋭い問いで、その後の議論をさらにオープンなものにしていったように感じられました。その問いを受けての、岡村幹事による「被害者の感情否定=人間性の否定」であるとの発言は正鵠を射るものであるとともに、今後の刑事司法・刑事政策がどのように再構築されてゆくかの基礎となりうるのではないだろうかと考えます。


今、高橋則夫先生(早稲田大学)の『修復的司法の探求』を読み返してみてちょっと驚いているんですが、今回の被害者参加制度に反対の立場を鮮明にされている高橋先生

被害者感情をナンセンスな考え方だとか、非合理的な感情だとして排斥するような考え方がありますが、それはおかしいわけで、被害者のそうゆう感情は当然ですから、それをふまえた上で、それではどうするのかというのが、われわれに問われていると思います。(高橋 [2003] p.157)

と述べておられます。制度設計の具体案は違えど、まずは被害者感情の解消に注力していこうという姿勢は共通だと理解されます。
「感情的回復」。数値化も統計分析にもなじまないだろう要素を、どのように政策プランに盛り込んでゆけるか(数値化、統計化できる、というアイデアがあれば教えてください)。"Justice for Victims"の概念が語るように、それを「正義」・「権利」といったタームを基準にして共通了解を取り付けてゆく戦略を否定はしないし、こと犯罪被害者政策に関しては王道だとも思います。
ただ、もしこのテーマに関わる学術的探求に、これ以上付け加えていく余地があるとすれば(逆にいえば、付け加えるだけの価値のある研究とは)、「正義」・「権利」といったタームを用いずに、この被害者参加制度を、ひいては21世紀の新たな刑事司法像を提示し、肯定してゆくことではないかと考える次第です。はてさて、どうなるものやら。


※最後に蛇足
今回のシンポジウムで一番鋭い発言をされていたのがテレビでもおなじみの大澤孝征弁護士。日本弁護士連合会執行部と公開討論をやってもらいたいぐらいです。
今法案を含めて、日弁連の一部は犯罪被害者のための制度改革に否定的な姿勢を示してきました。岡村幹事も別の機会にその話をされています。日弁連では、特にその中枢(執行部)が反対の立場にあるとのことですが、そもそも組織が一枚岩じゃないならどうして会長が声明を出しているのだろう?と思わずにはいられません(ちなみに反対派にもいろいろあるようです。なんてカゲキ!)。
意見がまとまっていないのに、さも日弁連の統一見解のように 「被害者の参加制度新設に関し慎重審議を求める会長談話」と発表することは、特定の弁護士グループへの圧力ではないのでしょうか。この声明そのものにどうも違和感があるのですが、その点はまた後日。


そもそも一般市民より各種の特権を得ている弁護士の中枢団体が、その内部でどのような利害対立を抱えているのかを理解しにくいことに違和感を覚えます。そんなことは自民党民主党のような政治団体じゃないから必要ないのでしょうか。これだけ分りやすい政治声明を出しておきながら。
統治三権のうちの司法に対して、単純に民主的ガバナンスが及んでよいのかどうかは勉強不足ゆえ答えをだせませんが、裁判所・検察以上にその内部事情が曝されていない団体が、同時に強力なアドボカシー・グループとして存在している状態は果たして望ましいことだろうかと疑問に思います。
「司法ガバナンス」?
これも探求してみたい一課題ということでメモメモ。