警察政策フォーラムを聴講してきました

nekomakura2007-03-07


全国都市会館で行われた警察政策研究センター10周年記念フォーラム「犯罪予防の法理」に参加してきました。場所がわからずに全国都市センターホテルに間違って侵入してしまい、受付のお姉さんに「都市会館はお隣ですねー」と笑顔で対応されたのは公然の秘密です。
午後から参加したので午前中の講演は聴けずじまい。渥美東洋先生の講演とパネルディスカッション、質疑応答を聴講してきました。講演とパネルディスカッションの詳しい内容はいずれ「警察政策研究」に掲載されるかと思います。ここではプログラムの最後におこなわれた会場との質疑応答について、簡単にメモ。
(あくまで管理人が把握した形です。抜け漏れあります。正確さは保障できません。なお()内は管理人による補則です)




《質疑応答についてメモ》
フォーラムのテーマはタイトルどおり「犯罪予防」。近年の治安政策では犯罪への事後対応よりも事前の予防に注目が集まっているとの共通理解のもとでパネラーの専門分野の関係するトピックについて発表がなされた。その後一時間半、会場から出された質問に各論者が答えてゆく質疑応答が行われた。

質問①ドイツ犯罪予防フォーラムについて
ライナー・ピッチャス教授:ドイツ犯罪フォーラムは財団として設立され政党や特定の利益集団に偏らない中立的な観点で青少年対策や特定の犯罪予防の原則(法的拘束力はない)を打ち立てることを目的としている。財源は警備業界などからの寄付でまかなっており、年に一度「犯罪予防会議」を行っている。警察関係者だけでなく、様々なコミュニティの治安担当者が全国規模で参加している。

②社会の安全を守るためであっても個人情報のやりとりが憲法上のプライバシーの侵害になることがあるのではないか?その点についてのアメリカでの違憲判決をどう考えるか?
渥美東洋先生:犯罪捜査が主目的なのか、当該個人の保護が種目的なのかによって妥当性の判断が変わってくる(アメリカの憲法判例についての理論の細かい話がつづく。よく分からなかった・・・)
マリオン・ケリー先生個人情報保護法のもとでの厳しい制約がある(だからOK?)
ピッチャス教授:個々のケースで考える必要があるが、個人情報の保護・自己コントロールが重要であることに間違いない。
小野正博審議官:日本でも医師が薬物検査の結果を患者に無断で警察に通報した件で最高裁判決がでている。(たぶんokelawさんがコメントしておられる、H17.07.19 第一小法廷決定 平成17(あ)202 覚せい剤取締法違反被告事件 判例時報1905号144頁)。守秘義務違反かどうかが問われたが、正当業務行為として問題ないとされている。

③テロリスト対策としてアメリカでは外国人の入出国の際に生体情報が採られるが、EUではどうなのか?(テロ対策と個人情報についての質問は多かったとのこと)
ピッチャス教授:少なくともドイツでは、自己情報の自己コントロールが基本とされている。ただEUとしても今後は収集してゆく方向にあると聞いている。

④かつては治安対策について「検挙に勝る防犯無し」といわれたこともあった(=検挙主義)が、それは本当に正しかったのだろうか?
小野審議官:明治の「司法警察規則」と「行政警察規則」以来、まずは行政的「予防」で犯罪を抑止し、抑止しきれないものを「検挙」するという方針がとられてきた。戦後GHQの意向でアメリカ型の「検挙中心」警察制度が導入されたことから検挙主義が強まったのは確かだが、交番制度などが残りつづけたように両者は車の両輪のようにに機能してきたといえる。
実際に暴力団対策などでも検挙ばかりでは末端の構成員にしか対処できず、組織の本丸・幹部にまで食い込めない。だから暴対法や組織犯罪処罰法で行政的対応ができるようにした。今後も予防と検挙の双方が重要だろう。

⑤テロ対策を「戦争」に例えることの法制度上の意義は?
ピッチャス教授:現在、ドイツでは内務大臣が非常事態法を提出しようとしている。これは憲法ドイツ基本法)改正が必要になってくるが、現在のドイツには包括的な「テロ対策法」がない。憲法判例上も現在ではテロリストに乗っ取られた飛行機を打ち落とすことはできない状態。実際、数年前にも州の大臣が軍に出動を要請したことがあったが、それも法的根拠無しで行われ議論になった。(つまり警察的対応だけではテロ対策には足りない、ということか?)
ケリー先生911テロ後は現実的に「戦時」状態だった。

アメリカの警察制度の在り方について④で言われているように本当に「検挙」中心なのか?
ケリー先生:んなこたーない(意訳)。アメリカには犯罪予防の「伝統」がある。昨今、司法省がコミュニティに対して犯罪予防対策に資金提供をおこなうCommunity Oriented Policingの制度をはじめており、地域社会の治安維持組織に機器の購入やオフィスの提供を行っている(こちらが担当部署のよう)。
渥美先生アメリカ社会についてそれほど詳しいわけではないけれど、アメリカほど地域社会がコミュニティを守ることに熱心な社会はないと思う。

⑦(事前予防のコストを「自由の再配分」として甘受すべきという井田先生の見解について)大多数の善良な一般市民が、今以上に治安のコストを負担せねばならない理由・正当性がもう少しよくわからない。再度ご説明をお願いします。
井田良先生:まず、この質問からは犯罪者と一般市民の間に線引きをしているような印象をうける。それはどうか。
また以前よりも「公共財としての安全」の価値が上がった、前より高くつくようになったと考えることができる。いいかえればある程度はその負担を社会が負わなければならない。犯罪は社会的要因によって発生する。「犯罪への社会の共同責任」という言葉があるが、(多数者が)その社会の在り方から、たとえば貧富の格差の存在から利益をうけている以上は、その犯罪の社会的要因へ対抗するコストも負担する必要があるのではないか。
ピッチャス教授:ドイツでも連符警察と鉄道会社間で治安コストの負担を巡って争いがあった。「コスト」について考えることは意義は在ると思う。
大沢秀介教授:プライバシーへの配慮などについては費用便益分析にはなじまない。
渥美先生:予防は犯罪の発生によるコストの発生を減らすためでもある。つまり予防医療的な発想。刑務所の維持や社会復帰などの事後処罰コストも考えれば、社会全体の治安コストを減らす上で有効ではないか。
磯部力教授:コストを考えることは無駄ではないが、治安の維持に関しては最後まで公共サービスとして提供されるものだと考える。


《感想などなど》
えー、⑦番の質問をしたのは管理人です。汚い字でごめんなさい。
コストの負担については井田良先生の事前の発表(下記、追記参照)を前提に質問したので「財政コスト」というよりは「自由・権利を制限される不便」といった側面についてお伺いしようとしました(そのニュアンスを旨く書けなかったのだけれど)。
特に渥美先生と井田先生では事前的予防政策の一般市民の負担について別の方向から正当化するものになっていておもしろい。ただ、どちらも理屈としては理解できるんだけれど、井田先生の「自由の分配」として事前的予防政策への転換を捉える鋭い見解に惹かれつつ、「犯罪への社会の共同責任」としてのコスト負担の正当化論にはやはり納得がいかないものがある。
行為無価値論=新派=犯罪原因について決定論・社会的事象に逸脱要因を求める、という理解は図式的すぎるだろうけれど、やはりこの違和感は譲れない。政策コストを誰が負担するか、なぜ負担せねばならないか。井田先生の意見をたたき台にさせてもらって考えを詰めていけるかもしれない。


追記:井田良先生の論題「犯罪の予防と処罰」まとめ

①犯罪の事前的予防と事後的処罰について古典的には前者が行政法の領域として比例原則のもとで扱われ、後者が刑事法のもとで公益保護原則のもとで扱われてきた。ただし、現代においては両者の境界は流動化している。また刑法の役割を「事後的処罰を通じての予防」とみなすならば、両者は「予防」の一点でおなじ土俵のうえに立っているともいえる。その点で刑法には予防と処罰の二つの側面をこれまでも抱えていたといえる。
昨今の刑事司法の動向は「処罰の早期化」が進んでおり、将来の危険防止に注目が集まっている。これは予防と処罰のうち前者に力点がおかれるうようになったことでもある。
②次に予防と処罰についてコストと効用の比較から考えてみるならば、
「広く・薄い」自由の制限・・・事前的予防
特定の者に対する局所的に厳しい自由剥奪・・・事後的処罰
の特徴が両者に見出される。コスト(この「コスト」は財政面のそれだけでなく、市民の自由の制限による「不便」や「不愉快」も含む、とのこと)は後者のほうが少なくてすむ。そして、なぜ、これまで事後的処罰が治安政策の基調だったかといえば、特定の者の自由を強く制限することで社会全体の「自由の総量」を最大化することができるから、と考えられる。
③現在の「刑罰積極主義」への転換の一つの背景としてテロリストのような「共存不可能」な他者の存在が一要因であるといえる。しかし、今後の方向性として治安政策が、事前的予防コストを下げ事後的処罰コストを高めてゆく方向になるとすれば、(つまり益々刑罰積極主義の方向にゆくならば)それは不毛・不合理なものに思える。「自由の再配分」として社会全体が広く予防政策による「不自由」を負担してゆくべきではないか。

なんだか井田先生を狙い撃ちするようだけれど、個人的にこのフォーラムでの一番の収穫は井田先生による「事前的予防政策の理論づけ」だったもので。
要は事前的予防政策による広範囲におよぶ自由の制限を「自由の再配分」として正当化しようとするもの(と理解しました)なんだけれど、率直に井田先生を突き詰めるとソ連にゆきつくと思った。検討の対象としてとても興味深いはずなんだけれど、そう考えるのは自分だけだろうか。