技術革新の制限の歴史

nekomakura2007-02-27

きっとウケねらいで作ったんだろうけれど「太郎ちゃんの牛乳カステラ」はけっこう美味しい。この価格でこの味とボリュームなら満足この上ないです先生。せっかく”ちょいワル”なんだから「コーヒー牛乳カステラ」も是非作ってほしいところ。
で、カステラとは関係ないんだけれど思いついたままメモ。


Q.新しい財・サービスが発明されることによって他者の所有権、または所有によって得られた効用が減少する時、それは所有権侵害とは言えないか?



まあ通常、答えは「いえない」になるんだろうけれど、しかし何故そういえないのか、そう考えることもあながち間違ってないんじゃないか、というのが前々からの疑問点。
たとえば、明日いきなり「どこでもドア」が発明され短期間のうちに大量生産大量販売されたなら世界の運輸業界はどうなるだろうか。多数派の人々にとっては効用が増すだろうけれど、日本国内だけで少なくとも数百兆円のGDPと数百万の雇用が失われるだろうことは間違いないだろう。


ラダイト運動が起こることは容易に想像できる。けれど打ち壊しが成功し運輸業界への需要が元に戻ることなんてないだろう。結局のところ、バスの車掌もトラックのドライバーもパイロットも、その新しい「技術」を需要する社会構造に反抗することになるのではないか?問題の「根本的解決」のために。19世紀の社会主義思想の隆盛がそうだったように。


つまり何が言いたいかというと、社会主義思想を「イノベーション」の抑制・管理・制限の思想として捉えることができないだろうか、ということ。
そして、そのような抑制・管理・制限が「行われないこと」が実は歴史上の例外ではないか。社会の、産業の技術革新を自由に任せ、むしろそれを積極的に促進する社会(innovation free)というのは文明が興って以来きわめて例外的な事象ではないか、と考えてしまう。「技術革新の制限」こそが有史以来の共同体の基本的な政策方針だったというと言い過ぎだろうけれど、しかし、その構成員の存在理由を危うくするような発明の類を為政者が無制限に許すようなこともまた考えにくい。


こう考えると、「平等」を掲げた社会主義思想も、実は壮大な保守主義だったと言えなくもないなあ。
最近の「科学技術と倫理」といったテーマについては、まったく勉強したことが無いので何ともいえない。ヒントが見つかるかも知れない。あとシュンペーターも読んでみたいんだけれど、ヒマが無い・・・
ひとまず書き散らしのメモはここまで。