リバタリアニズムvsコミュニタリアニズム?

nekomakura2006-09-04

写真は南北線永田町駅
カーブの具合がよい感じでした。


で、以下、手習いの身分で思いついたメモ


立法政策の理念としてリバタリアニズムコミュニタリアニズムは矛盾しないのではないか?とくに日本みたいなところでは。



リバタリアニズムコミュニタリアニズムの二項対立は議論の出発点をどうしますかっていう対立でしかなく、放置プレイ推奨(リバタリアニズム)のもとでならコミュニタリアニズムも自由に羽を伸ばせる。
共同体か個人かという選択が議論の根本にあるとして、「自生する秩序」を尊重する社会基盤さえあれば、gated communityであれ何であれ、その内部で個人の好き勝手に規律を定めることはそれなりに許されるはず。
ならば、アメリカがどうなのかはよくわからないけれど、「ムラ社会」的グダグダを近代法秩序(と、その啓蒙)でもって乗り越えなきゃっ(川島武宣先生など)みたいなことが主張され企図され続けてきた日本なら、わざわざ共同体を持ちあげなくたって放置プレイで共同体主義に傾いていけるんじゃないだろうか?
むしろコミュニタリアンの内部でさえ微小な価値対立が無いわけないので、なにを「共同体において尊重すべきか」を決める際には比較不能な価値闘争に全メンバーを巻き込むことは避けられない。ならば、みんな好き勝手集まって、てけとーに立法していいよ、と。政府は干渉しませんよ、と取り決めさえすれば。コミュニタリアン同士で別々の共同体を作ることもできる。「家族が大事」のお題目を唱えようが「ボランティア義務付け」を掲げようが自由。その結果として、より優れた社会制度を築いたコミュニタリアン達は発展、もしくは安寧を手にし、また社会全体がそれに習ってゆく。


というわけで、リバタリアニズムの理念のもとでならコミュニタリアニズムの理念は達成されうると。コミュニタリアンリバタリアンに譲歩したって損はしない。
もちろんその逆はありそうにないけれど。


以上



追記20060904
だから、理念闘争を自己目的化するならともかく、「どんな社会のもとで、どんな政策を行って、どんな理想を達成しようか」と考える現場の政策策定者にとって、より上位の社会(都道府県に対する政府、市町村にとっての都道府県)は許容範囲が高いほうがよい。さらに税源委譲してくれればなおのことよいはず。
やっぱ徴税機構も政府から独立させて、地方政府・都道府県政府・国家政府の順にカスケード配分すれ、、、うわっ、何をすqあwせdrftgyふじこlp


追記20060924
いいかえれば、自由主義という思想が実現する世界の「中立化」ということだろうか。政治思想の有する機能として、はずせない論点だと思うんだけど、この点に関して考察をめぐらした文献などないものかしらん。思想の機能主義的分析 → 知識社会学の課題?


追記20061107
さらに別の論点として、「コミュニティ」を中軸に据えようとする思想が成立した社会背景として、コミュニティ的な価値・理念が通じない社会空間(市場・国家)の成立と、その生活空間への浸透(自由主義個人主義など)があっわけで。古くはそれが中間集団に着目する社会学の誕生背景でもあった(R・ニスペット)
そうすると、コミュニタリアニズムというものも、「コミュニティの外」を対にすることでその実像の立ち現れてくる、その基盤が確固たるものとなる思想ではないか、と考えうる。そこに荒々く無情でコミュニティ的価値判断の通用しない別の社会空間があってこそ、コミュニタリアニズムは輝き、人々のよりどころとなるのではないだろうか。
そんなら「コミュニティの外」は徹底的にコミュニティ的なものから遠い場所である必要がありますな。それが「シジョウゲンリシュギ」なのか「プロレタリアドクサイ」なのかは、管理人の知るところではないけれども、ひとまず、やっぱりコミュニタリアニズムは、リバタリアニズムと両立するし、両立させたほうがいいと言えるんじゃないだろうか。
とか考えながら検索してみたところ、r_kiyoseさんが同じような視点から思想の機能面についてするどいご指摘

また、リバタリアン的な改革を主張する「反動」や「ガス抜き」としてコミュニタリアンな伝統主義が主張されるのだ(たぶん「フェイク」つまり「作り物」として)という解釈もあるだろうと思う。

社会をうまく転がしてゆく「道具」として、保守主義の中で共存している、か。うん、やっぱりこれはどっちも保守主義だわ。