偏った政策報道と対抗的政策広報

nekomakura2007-07-13

 夕食時、たまたまNHK『特報首都圏 コムスンの受け皿は▽介護現場の困惑』を見ていた。といってもはじめから終わりまでではなく、7:50分くらいからの介護保険を打ち切られた老人と、それに対する解説者とアナウンサーのコメントまで。
 なんだけれど、そのあまりにも「無理矢理」感一杯の番組作りに対し、違和感を通り越して「これは反政権党キャンペーンなんじゃないか」と、時期が時期だけに、制作者の意図を邪推せずにはいられなかった。


 ただ単に「NHKがおかしな番組を流した」というだけなら記録するまでもないけれど、少し考えるところがあったのでメモ。思いつき程度に。



インタビューについて
 副題からするとコムスンの事業撤退の影響を伝える番組のように思える。けれど、自分が観だした後半残り10分の内容は、コムスン問題にかこつけた現行制度への無いものねだりだった。
 最初に目に飛び込んできたのは、介護保険を打ち切られた老人(男性)への聞き取り。
 老人は立ち歩きが困難な腰痛と脳梗塞による障害がありヘルパーを頼んでいたが、介護認定基準の見直しで公的扶助を受けられなくなった。杖が無いと洗濯物も干せない、これが一番の悩み、と切々と語る老人。たしかに見た目にも矍鑠とした印象はない。


 けれど何故、介護サービスへの公的助成が受けられなくなったかといえば、番組の説明によると「同じ敷地内に息子夫婦がいるから」だそう。新たな認定基準では、このようなケースでは扶助が受けられなくなったとのことだけれど、これは「当たり前」じゃないか。わざわざ報道するようなケースでもない。息子夫婦といっしょに洗濯すればいい話で、そもそもこれまで補助が出ていたことがおかしいのではないか。
 そう思ったところに、番組ナレータは続ける。「今では週に一度、3000円を払ってヘルパーを雇っている。全額自己負担であることを考えると、けっして、何度も利用できるものではない」、と。細かな表現までは同じではないけれど、だいたいそんなことを言っていた。
 もう、開いた口がふさがらない。分って喋っている「演出」としか思えなかった。


 その根拠は、老人が座っていた特徴的な形態の椅子にある。
 間違いなければあれはHerman Miller社の「Aeron Chairs(アーロンチェア)」だ。事務チェアーの最高級ブランドで、値段は以下の通り。

[rakuten:mr-sohmu:10002508:detail]

 こんなイスを購入できる老人にとって、果たして毎週3000円がどれほどの負担なのだろう。
また、ほとんど同居状態の息子夫婦は共働きとのこと。つまり、家計の規模は小さくないはずだ。
 さらに、都内で「同じ敷地内に息子夫婦がいる」ということだけれど、「都内に別棟を建てられるほどの土地を所有している」老人ならば、その負担なんて益々小さなものではないだろうか。
 どう解釈しても、社会階層は中位以上の人物のようにしか見えない。富裕者に介護保険の受給資格が無いとまでは言わないけれど、あの老人にとってどこまで切実な問題のかといえば、やっぱりかなり疑わしいのではないだろうか。


服部万里子女史のコメントについて
 インタビューそのものの酷さにあきれているところに、画面はスタジオに戻る。
 アナウンサーと解説の服部万里子さんが登場。立教大学社会福祉を講じておられる方らしい。
まずは、その服部さんのコメントに失笑してしまう。
 「戦後、今の社会を築いてきた老人にこのような仕打ちをするのはどうでしょうか」(意訳)
 そもそも1000兆円も公債を抱えずにすんでいれば、介護保険の国費負担部分も拡大でき、受給対象を狭めなくちゃならないような事態にはならなかったでしょうね。で、その公債依存体質の社会制度を作り上げ、財政赤字をひたすら垂れ流してきたのは、どこの国のどの世代だったのかと問い詰めずにはいられない。
 「今の社会を築いてきた」からこそ、どのような仕打ちをうけても文句はいえないはずなのに。


 アナウンサーもそれに頷いて賛同するような素振り。彼は、いったいどの世代に属しているつもりなのだろうか。
 その後の財政負担の論点についても、何とでもとれるような曖昧な解説に終始し、正直、服部女史が何を言いたいのか分らなかった。そこに目をつぶったら、いかなる社会制度も成り立たないというのに、専門家から説得力ある意見が聞かれない。アナウンサーもその点を問い詰めることなく、次の論点に移ってしまう。
 なによりも、最後の「市民の声を聞け」というまとめ方が最悪だった。
これは何も言ってないに等しい。そもそも利用者の希望を100%反映させられるようなシステムを作れない・維持できないからこそ、その制度改革が政策課題になっているというのに、これでは現実に目をつぶれと主張しているのと変わらないからだ。


 服部氏の主張は「介護の営利化はそもそも成立しえない」というもののようで、同様の事柄をビデオニュースドットコムでも主張していたようだ。つまりコムスン一社がどうというのではなく、介護福祉制度を営利企業に任せることに反対しているらしい。
 介護福祉は全く門外漢なので、服部女史の主張についてコメントすることは憚られる。けれど、この主張を受け入れたら、残るはあらゆる医療・介護サービスを政府が提供する福祉国家しかない。


公共政策と政策報道
 無理矢理なインタビューに、何も代替案も出さずに批判的コメントを連ねる解説者。それにひたすら同調するアナウンサーに、制作者側の「主張」が垣間見える。
 これでは政策報道というより、ただの居酒屋談義でしかない。
 

 介護保険制度そのものが欠陥であると主張するにせよ、その根拠となる情報が違和感の残るインタビューと解説者の主観的な「感想」しかないとすれば、根拠薄弱と言われても仕方がないのではないか。
 影響力のある報道機関が、そのような杜撰なカタチで公的制度・政策を俎上にあげて情報伝達を行うとすれば、当該政策について「タブラ・ラサ」の状態にある視聴者は、あっさりと誘導されかねないが、国政選挙が告示された時期にそのような情報提供が成されることが、果たして世論形成と政策選択としての選挙に対して「より良い」ものだろうか。


 そのような報道が行われる「要因」については、マスコミ研究に膨大な蓄積があるはずだし、この点についても素人の身としては論弁は避けたい。
 ただ、そのような、いわゆる偏向報道が存在することを「前提」にするならば、行政側からの何らかカウンターメジャーや、またはマスメディアの報道に恒常的に「対抗」する部局があってもよいのではないか、と考える。


対抗的政策広報の意義
 当該番組内では、上記の老人について厚生省に問い合わせた結果「当該自治体とよく協議する」旨の回答があったと報じられていた。それを受けて、「もっと市民の声を聞け」と番組はまとめていたのだけれど、この回答を出した厚生省側はいったいどのような番組で、どのような文脈で自らの回答が使用されるかを把握していたのだろうか。
 十分な資力がある老人に介護認定をしなかった事は、受給範囲の限界を設ける上でさほど大きな問題はないはずであるし、社会通念からも逸脱していなと思われる。にもかかわらず、あのような「文脈」のもとで報道がなされることは、介護福祉行政へのマイナスイメージを増幅させることに繋がりかねない。 
 事前に報道内容を把握できていれば、より詳細な認定取消事由を説明できただろうし、それが難しいとしても、垂れ流された報道にこのまま沈黙を続けていいのだろうか。


 もし各省専属にせよ、また行政府横断型にせよ、このような報道に対して瞬時に対処できる部局があり、「その報道は間違っている」という「訂正」や「批判」、そして、より細かい事実を伝える「詳細説明」といった役割を担うならば、一般市民の政策判断に資する情報量は社会全体でみて増大することになる。
 野村総研の北村倫夫氏の分類(「公的セクターの戦略的な政策広報のあり方PDF注意!!!)に従えば、前者は「リスクマネジメント型」、後者は「アカウンタビリティ型」の政策情報となるだろう。いずれにせよ、センセーショナルな報道による世論形成や、それにによって政策判断が歪められる事態を防ぎ、一般市民の意思決定をより「正確」なものにしうるはずだ。
 一法主体としての統治機構が、報道機関に「対抗」するための、何らかのアクションが必要ではないだろうか。


 現在の、たとえば中央政府の公報活動は内閣府が「政府広報」として扱っているし、その他個別具体的な事柄は各省の大臣官房が担っているらしい。(例えば総務省
 政策への「誤解」や「偏見」を解くことは、あらたな政策案やイベント情報の提供と変わらず重要なはずだけれど、そのような対抗的政策広報といえそうなものは、「政府公報オンライン」なんかを見ていても、あるようでない。
 

 念のため、行政府の活動として法的な問題がないかと問うておくならば、対抗的政策広報は、あくまでも個別政策についての情報を「付加」するものであって、「制限」するものではないから、このような行政作用が「報道の自由」を侵害するものとはならないはずである。
 正しい政策運営を行っているならば、「言われっぱなし」に反論することはけっして醜い自己正当化などではなく、むしろ国民の政策判断に資する「情報公開」なのである。


「事実が報道されることを前提にしない」ということ
 今、読んでいる途中なんだけれど、高瀬淳一『情報と政治 (シリーズ21世紀の政治学)』(新評論)では、アメリカにおける政権批判的な政治報道の増加原因について、視聴率獲得のためのセンセーショナリズムであると論じられている(p49以下)。
 これについては分析そのものの正誤とは別に、確かにマスメディア側にそのような「動機」があるとしても、果たして視聴者は本当にそんな報道を望んでいるのだろうか、との疑問を抱く。
 政府への批判的報道を喜んだり喝采を送る視聴者なんてのは、反政府的な思想傾向の強い者だけであって、特定の世代や地域では多いのかもしれないが、大方の一般市民がそれに該当するとみなすこと自体、偏った社会分析である。スポーツ報道のように、政権批判をするニュースキャスターに「もっとやれ!」と声を上げる人を見たことがない。つまりマスメディア側の購買層分析は間違っているんじゃないだろうか。
 少なくとも、自分に限って言えば、賛否の色のついた報道ではなく、ただ事実をありのままに淡々と伝えてもらいたいと思っている。


 けれど、この「事実がありのままに報道される」こと、は視聴率競争を抜きにしても難しいはずだ。
 これまでに総務省からテレビ局への放送停止命令が出されたことはない。また政治家のプライバシー云々で名誉毀損の判決がでることはあっても、行政機関に対する報道で訴訟が提起されたケースは寡聞にして知らない。そもそも「報道の自由」に対抗しうる「プライバシー権」は法人たる行政機関には認められない。
 つまり、報道機関に行政活動についての正しい情報を伝えるインセンティブは制度的に担保されていないのだ。

 
 だとすれば、残された方法は「事実が伝えられない」ことを前提にした制度設計しかない。
 意図的な誤報だけでなく単なる過失の場合も含めて、行政側が対抗する手段・機会をもつこと。そのための対抗的政策広報機関の設置は、「報道の自由」のためのコストとして認められうる。
 性悪説に基づいた制度設計は、第四の権力に対しても必要なのだと、公営放送たるNHKを眺めながら思う。(了)


追記:20070721
ちょこっっと語句を修正・追記。