泥棒に追い銭

nekomakura2006-12-28

先日のエントリの「いわし」での質問
http://q.hatena.ne.jp/1165863852
にいろいろと回答をいただきました。


質問の意図をつかみきれなかった方もおられるかもしれませんが、要するに社会悪の発生源者が存在するにもかかわらず、その損害補填等を第三者が行わなければならない事態について、発生源者やそのような制度への非難の意味合いをこめた「言葉」が欲しかったのです。質問そのものに、事象のとらえ方そのものに価値判断が含まれていることを隠すつもりはありません。



ただ、質問文で例示した前者と後者では、実はかなり事象として別物であると質問後に気づきました。
そして、後者に限りますとid:satosu様からメッセージとしていただいた「泥棒に追い銭(盗人に追い銭)
」がこれ以上ないほど的確な表現です。
ちなみに英語では「Throwing good money after bad」が近い?漢語の慣用表現もありそうだなあ、と。
で、メモついでに後者の、矯正コストの社会負担について少し。


逸脱行為による損害の対象を何にみるか(国家法益か被害者の法益か)の論点はあるでしょうが、いずれにせよ矯正によって利益をえるのは加害者が第一でありますので(制度設計の趣旨もそうあります)、やはり「泥棒に追い銭」の感はあります。
完全な矯正によって再犯を防ぐことができれば社会全体の将来的利益は確保できる、との論調もありますが、実際にはそれは犯罪の発生による法益侵害という「マイナス」を「ゼロ」にするだけのことであり、なんらかの社会的利益は創出されていないわけです。
また再犯率の高さをみれば、満足な矯正はできてはいない現状があり、ならば矯正予算をあげて再犯を防ぐべきだ、との論には「泥棒に追い銭」を感じざるをえないわけです。堂々巡りですね。


実は、この論点の結節点は「自由刑」の制度にあると筆者はみております。詳しくのべるだけの学殖はまだありませんが、当たり前とされてきた刑事司法制度の根幹部分こそが、筆者を含め世間の少なくない人々に社会の安心と安全への疑念を抱かせる根源なのではないか。対処療法ではなく、制度設計の土台からの問い直しこそ求められているのではないか。そのような問いの方向性に基づき思考を深めていけそうな気がしています。


関心の赴くままに好き勝手本を読んできました。卒論(黒歴史)をなんとか仕上げ、法学部に再入学し、刑事政策学(刑事司法制度論?)こそ進むべき道ではないかと思いつつあるこの一年。
このような違和感を抱えながらどこまでいけるのだろう、そんなことを考える今日この頃です。
来年がよい一年でありますことを。